1年前の昨日
昨2006年の11月3日(祝・金)~05日(日)、私は、当時赴任していた鹿児島から横浜に帰省して、当時、死の床にあった母を必死に在宅看護していた父のいる実家にいました。
肺炎を併発していた母の体温が数週間ぶりに下がり、これであと2~3週間は持ちそうだと安心して、私は実家を出て鹿児島の自宅に帰りました。母が死の床につき、いよいよ悪化して、毎週のように10月以来帰省するようになってから、初めて安堵した瞬間で、父と二人で喜んでいました。鹿児島から横浜までは物理的だけでなく経済的にも遠いこともあり、私は次の週末には帰らず、2週間後行こうに帰省することにしました。交通費だけでなく、狭い実家に母のベッドも据えると私が寝る場所がないため、帰省したのにホテル泊まりだったこともあり、経済的にも余り無理が続きませんでした。
昨2006年にもやもや病に起因する脳梗塞の発作で倒れて以来、「体は動かずしゃべれず、意識はあるものの植物人間に近く、なまじ意識があるだけ植物人間よりも酷な状態」であった母とは、コミュニケーションが可能な状況ではありませんでした。しゃべれなくなる等、脳梗塞の 発作で脳機能の一部が犯されていた母が当時どれ位正確に外界の状況が把握可能だったかは定かではありませんが、父が世話すると反応する母が私には余り反応 せず、仕事やら何やらで6月の発作以来10月まで帰省できなかった私の親不孝ぶりが責められているような気がして、申し訳ない思いでいっぱいでした。それ でも母が生きていてくれるだけでありがたく、肺炎から持ち直したことを父と共に喜んで私は鹿児島に向かったのです。
しかし・・・その次の週末、昨2006年11月11日(土)、体力を消耗しきっていた母はとうとう力尽きて帰らぬ人と化してしまいました。夕方、父から電話がかかってきて「死んじゃったよ」と聞いた時、11月11日(土)の週末も帰省しておれば良かったと、心底後悔しました。
それでも、死ぬ前の最後の命の炎だったのでしょうか?。昨年の昨日は母が一瞬だけ持ち直して、母が倒れて以来初めて、ほっとした幸せな気持ちで鹿児島の自宅に帰ったのでした。あと2ヶ月は持たないだろうとは思いながらも、わずかその一週間後に母を失うことになるとは夢にだに想像せずに・・・。今年も11月05日が過ぎて、そんなことを思い出してしまいます。
父によれば、病床の母は、時折曇天の日に窓の外を、何かに憧れるような目で見ていたそうです。景色が見たいのかと思って窓を開けてあげると、横を 向いてしまうのだそうです。父が察するに恐らく、外が見たかった訳ではなく、元気で楽しかった頃のことを思い出して、その背景のキャンバス代わりに空を見 ていたのではないか、とのことでした(母はしゃべれなくなっていたので真意は不明ですが)。元気だった頃は花が大好きで、一緒によく横浜プリンス・ホテルのフラワー・プロムナードに行ったり、鹿児島に遊びに来てくれた時にはフラワーパーク かごしまを楽しんだりした母なのに、昨2006年6月に脳梗塞で倒れて以来は、花を見せても反応が無く、「脳内の、花を愛でる機能が失われてしまったようだ。あれ程、花が好きだったのに」と父は嘆いていました。
死の直前だったとは申せ、わずか1年前には生きていてくれていた母。そして、母の看病をしながら生きていてくれた父。昨2006年11月11日に母が死に、そして、今年(2007年)8月5日には、後を追うように父まで死んでしまいました。今週末は、本当は父と一緒に手配をしようとしていた母の一周忌があります。10月には故郷・横浜に帰らなかったので、9月末に墓参りに行って以来、久し振りに霊園に亡父と亡母に会いに行けます。とても悲しいのですが、墓参りに行って両親に会えるのが楽しみでもあります。母の死に際して親不孝だっただけでなく、父の死の際にも孤独死させてしまったので、親不孝な私のことを両親は怒っているかも知れませんが、大好きな両親の御霊に、会いに行きたいと思います。悲しいですが、両親に会いたいので楽しみです。
そう言えば、05日と言えば、亡父の月命日でもありました・・・。
◎ 関連する、当ブログ内の別の記事
○ 母の死
○ 母の死・その2
○ 母の葬儀&墓地
○ 母の納骨
○ 母を偲ぶ拙歌9首
○ 母のいない正月
○ 母の夢を見ました
○ 母の墓参り
等々です。上述以外の父や母の死に関する他の日記は、このリンク先の目次欄から辿って行けます。
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