神谷不二先生のご葬儀
今日(2009年2月24日(火))は、恩師・神谷不二先生の葬儀に行って来ました。
偶然丁度会社で、まだ取得未済だった連続休暇の消化を急遽することになって休暇中でしたので、行けたのです。
実は、おとつい(2月22日(日))にランニング桜島に参加して走った際、この時の鹿児島旅行の手配は連続休暇を取得することになる前に行ったために休暇を想定しておらず、土日の週末を利用してのことでした。このため、当初は休暇を取れることになったのであれば、鹿児島での日程を延長して妙見温泉か大好きな霧島温泉辺 りを楽しんで来ようかとも思っていたのですが、そのような絶好の機会であったにもかかわらず何故か妙に引っかかるものがあって気乗りがしませんでした。こ のため、当初予定どおりの航空券と宿の手配のままにしておいたところ、出発の日(2月21日(土))の朝刊で神谷不二先生の訃報を知った旨は、同日の日記のとおりです。往きの飛行機の中では泣き続けておりました。
今にして思えば、虫の知らせがあったのかも知れません。また、この時期に急遽休暇を取得することになったのも、今にして思えば運命か天の思し召しのようなものを感じます。
結局、当初予定どおりに日曜日に名古屋に戻り、翌月曜日(昨日:2月23日(月))に若干の私的な用事を済ませてから第1の故郷・横浜の実家に戻り、本日、告別式に参加して参りました。場所は横浜市青葉区美しが丘2の21の4 公益社会館たまプラーザで、本日の13時からでした。
2月21日(土)の日記にも書いたとおり、私は東洋英和女学院の社会人向け大学院修了後も土曜日の神谷不二先生のゼミに参加させていただき、合計9年間ご指導賜りました。私たち社会人学生にもとても優しい先生でした。当時私は溝の口に住んでいて、同じ田園都市線沿線だったので帰路は他の同方向の路線の学友達と共に先生といつも一緒で、あれ程の大先生と親しく過ごす時間があったことは、今にして思えばとても贅沢なことでした。東洋英和女学院の大学院に入学した1995年は、今のように「東急目黒線と地下鉄が相互乗り入れする」運行開始前の「目黒線がまだ目蒲線だった時代」ですので、大学院があった六本木からは地下鉄日比谷線に乗り、自由が丘で東急大井町線に乗り換えて、二子玉川で田園都市線に乗り換えておりました。目黒線開通後は麻布十番から地下鉄と相互乗り入れ直通の目黒線で大岡山まで行き、大岡山で大井町線に乗り換えて、二子玉川で田園都市線に乗り換えるのがコースに変わりました。ゼミ自体もそうですが、帰路で先生と一緒にいられることが毎週楽しみでした。
ご指導賜り始める前から神谷不二先生のことを尊敬していた私は、東洋英和女学院の大学院受験の面接の際に面接官に神谷不二先生がおられて初めて拝見し、芸能人に憧れるミーハーなファンのように「あ、生きてる、動いてる、初めて本物見ちゃった」などと不謹慎に喜んでいたのも、今では十年以上も前の昔の出来事になってしまいました。私が進学する博士課程の大学がなかなか決まらず、「博士浪人」を長く続けていた際にも、心配して下さいました。私にとっては、とても優しい大恩のある先生でした。
もう二度と帰って来ない、今となっては思い出の中だけの情景・・・。毎週ゼミに参加させていただいて、帰りは一緒に帰れていた日々はもう二度と戻って来ません。
鹿児島赴任後私はゼミに参加できなくなりましたが、その後も帰省時に1、2回だけゼミに顔を出した記憶があります。2007年12月16日 (日)付け日記「恩師・神谷不二先生の講義を久し振りに拝聴しました」に書いたとおり、最後にお姿を拝見した慶應義塾大学での復活講義の際には、上述のとおり長く接する機会のあった私は、十数年ぶりや数十年ぶりに再開したであろう慶應義塾での先生のゼミ卒業生に遠慮して「話す機会」を譲って私はお話申し上げませんでした(私は慶應義塾の学部学生時代は他学部の学生でしたので、先生にご指導賜っておらず、先生のお世話になったのは東洋英和女学院でのことです。誤解を避けるべく念のため)。このため、最後に先生とお話したのは、もう2年前のことになります。2年前当時、東洋英和女学院退職後も非常勤で教えに来て下さっていたのも最後になり、「退職時の最終講義」とは別にもう一度「東洋英和女学院大学大学院での最終講義」があり、週末の土曜日でしたので前任地・鹿児島から聴きに行けたので、久々に東洋英和女学院大学大学院の学友達で集まったのでした。当時の学友の1人が、その際の写真を焼き増しして私にくれました。とてもありがたいことでした。生きておられる先生に会う機会はもう無いので、この写真は私にとっては宝物になります。
今にして思えば、この2年前の「最後に先生とお話した」頃は、「母が死んだ後も父はまだ生きていてくれた短い時期」の頃のことです。2006年の母の死以来、母、父、神谷不二先生と続けて、わずか3年たらずの間に相次いでかけがえのない人を私は亡くしてしまいました。自分にとっては、この間に本当に、かけがえのない人が相次いで死んでしまいました。極めてべらぼうに、悲しさと寂寥感と孤独感が強いです。
今日、棺の中の先生のお顔を拝見した時、上述のゼミや帰路や、また、毎学期ゼミの最終日の打ち上げの飲み会の機会での先生との思い出が思い出さ れ、涙が止まりませんでした。昨年体調を崩されたという噂を同窓生から聴いていたので心配していて、今回の訃報もその延長線上での話かと思ったのですが、 ご子息の神谷万丈先生による「葬儀でのご挨拶」の内容から、そうではなかった旨を知りました。体調はどうやら戻っていたとの由で、正に急性心不全、夜中に トイレに行った時に突然倒れ、その時には息は既になく、救急車で搬送された病院で1時間後に死が確認されたとの由でした。であれば、ご遺族の方にとっては 「心の準備」ができていなかったことだろうと推測します。「ご遺族の方々も、さぞやお辛いのではないか」と拝察いたします。菩提寺が鎌倉の東慶寺である旨を、初めて知りました。臨済宗の法要を初めて目にしました。
今、この瞬間、既に先生のお体は骨になってしまった後の状況である筈です。大好きな神谷不二先生・・・もうこの世からいなくなってしまった・・・。繰り返しになりますが、自分にとっては、両親、神谷不二先生と、それから今日の日記とは無関係ですが中学時代の恩師が昨年亡くなり、かけがえのない人たちがここ数年の間にどんどん亡くなってしまいました。とても・・・とても悲しいです。
◎ 過去の当ブログ内の神谷不二先生に関する別の日記
2007年12月16日 (日)付け「恩師・神谷不二先生の講義を久し振りに拝聴しました」
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